口語訳 古事記 神代篇

口語訳 古事記―神代篇 (文春文庫)

口語訳 古事記―神代篇 (文春文庫)

人代篇と並んでいたのでついつい購入。口語訳というのはなかなか新鮮。面白かった。
邪馬台国の読み方で「ヤマタイ」は間違いであると書いてあった。この話、随分以前に数教協大会で初めて聞いてなるほどっと思ったのだが、なかなか専門家のお墨付きが確認できていなかった。今回はじめて活字で明快に書いてあるのを読んだ。
以前読んだ漫画で江戸時代に秘本をめぐって忍者が戦うお話があって、その秘本が古事記だった。そういえば古事記が発見されたのは新しいんだって?偽書だなんて話もあるけど、そこらへんについての記述はなし。人代篇を読まなくては。

あけましておめでとうございます

と一応書いてみましたが、ここは常連のお客さんがいるわけでもなし。はてな日記をお借りしていますが、「日記」でもありません。志としては使えるサイトを目指しております。異動しても便利なようにと思っています。それでも、ついつい日記風の愚痴を書きたくなることもあります。でもなるべく量は抑えたいです。守秘義務とは無関係になるべく具体的な話は1年以上寝かせてから書くようにしています。
そんなわけでたまにしか更新しませんが、のんびりやっていきますのでよろしくお願いいたします。

教員の質を高めることの危険性

むかつくニュースが多いです。いやニュースの内容ではなくてその報道姿勢に。医療問題や教育問題の報道で「うん、そうだ!その通り!」とひざを叩いた記憶、ありません。逆に「ふざけるな」とテレビの電源を落とす確率、高いです。特に誰かが死んだときにお涙頂戴の編集方針でされる報道、許しがたい輿論の誘導だと感じます。遺族の声に絶対的正義を与えんとする意思を感じます。正義か悪者かの思想に国民を浸そうと連日連夜奮闘しているようです。当然報道機関はわれこそは社会正義の具現者だと息巻いている訳ですが、そのわりに報道機関がイジメの対象にするのは末端でけなげに頑張っている「個人」だったりするように思います。「やってらんねぇよ」と責任回避の土壌を生み出しているのは、いったい誰なのでしょう。

今まで再三書いたことなのですが、また書きたくなりました。

「教員の質が低下しているから高めなくてはいけない」こういった意見が席巻しています。質が低下していることが事実かどうかなど検証するべき問題は多々ありますが、現実にこの意見を根拠としてさまざまな施策がなされています。
でもね、昔、日本の教育史でこんな風に習ったことを思い出すんです。
戦前の教員は優秀だった。それは貧乏だが優秀で学びたいという人材を学費が支給される師範学校という制度で集めたから。師範学校では「順良」な人間形成がなされた。つまり人柄も立派で命令には従順ということですね。これらの立派な「教師」たちが子どもたちや親の信頼を得て、立派な教育を施し、「国民」を作った。そのおかげで、日本は戦争をすることができた。爆弾かかえて片道分の燃料積んで飛び立つことができるパイロットを育てたわけですから、その教育技量は物凄いものがあります。現代の自爆テロと比較したくなってしまいます。
これらは価値判断は別にして教育の成果だったと認識したからこそ、敗戦後の教育基本法には次のように書かれました。

われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。

さて、この理想とかけはなれていくようですが、教員の質の向上は両刃の剣であるということを認識していただきたいわけです。もちろん「教育」と「洗脳」はまったく違うものですが、技術的には近いものがあるのです。社員を馬車馬のようにしかも自主的に働かせることのできる経営者は、たぶんそのまま優秀な教育者になれますよ。某宗教団体の幹部だって、もし教員の世界に入っていたら……。逆に優秀な学者が子どもとのコミュニケーションが巧くとれるかどうかはわかりません。
戦後の教育改革はこの認識の下に、教員養成はそういう順良なる精神を養い教育技術を磨く「師範学校」ではなく、一般の大学で行おう、となったのだと理解しています。師範学校も学芸大学と改められました。「学芸」とは簡単に言えば一般教養のことです。つまり教育の専門家ではなく、市民としての教養をもった常識人こそ、教育に携わるべきだということですね。

このエントリー、かなり推敲しないとわけわからない内容になってしまいました。教員の「質」を高めるといっても、その中身を問題にしないととんでもないよ。何百万人もの犠牲で得た教訓を忘れないようにしようね。…こういうことなんですけれど。いや、実際最近の教員に与えられる膨大な「研修」、効果は薄いから罪がないというものの、どうなんだろう。いや、余計なことでした。さらに余計なことを書いておくと、今日は文化祭の振替で休日なのです。どうか「職務専念義務違反」などと訴えてくださいませんように(^^)。

先を読む頭脳

先を読む頭脳

先を読む頭脳

もう20年以上前の話になるのだが、教育学部に在籍していた私は「教育学」なるものをいくつか学んだ。そしてわかったことは、教育学で学問の名に値する*1ものなんて一つもないな、ということだった*2
大学の講義で準備されいたのはさらに30年以上前の心理学だったから問題外だし、ちと新し目の「教育工学」というのも猿の調教か「苦悶式」の役にしか立ちそうもない内容だった。自主ゼミで読んだピアジェラカン、乳児心理学やゲシュタルト心理学は子どもに向かい合う心構えにはなったが、やはり学問ではなかった。そんな中で、「これは!?」と期待感を持ったのが卒業も近くなった頃に知った認知心理学だ。しかし時間切れ。結婚就職子育てと怒涛の時間が流れていき、私の脳髄も腐った。実は佐伯先生の本を何冊か読んだのだが難しくてよくわからなかったのだった。
この本は将棋の羽生先生の講演を認知科学者の伊藤毅志先生がさらに解説したものだ。
あれから20年たって進歩した認知心理学の知見を親しみやすい羽生さんの話を通じてわかりやすく知ることができるかもという期待を持って読み始めました。しかし、考えてみたらこの期待はあまりにもムシが良すぎました。楽しく読めましたし、実際面白かったのですが、やはり読み終えて将棋でもない、認知心理学でもない、コンピュータ将棋でもないとどれも興味ある内容なのですが、中途半端な印象を持ってしまいました。本として売るためにはいろいろな制約があるのでしょうが、伊藤さんには認知心理学を真っ向から取り上げてしかも私程度の人間にわかりやすく理解できる本を書いてくださることを期待いたします。
でも、将棋のルールは知っているというレベルの方で認知心理学にちょっと興味あるなという人にはお勧めです。一粒で三度美味しい内容ですから。

*1:一般的にはここは「学問」ではなく「科学」と書くのがスタンダードだと思う。しかし、日本語の「科学」は「わけられた学問」という意味なのでよくない。ここは語源を「数学」にもつ「学問」を採用した。

*2:あくまで20年前のことです。現在、教育学を研究されている方々、失礼御免ください

方法のホウ

上の脚注書いてて思い出した話。
先日美術の先生が「永字八法」という話をしていた。私は「ホウ」の字が「方」か「法」かわからなかったので、「ホウってどういう漢字?」と聞くと、その答が「方法のホウだよ」。
「方法の上のホウ?それとも下のホウ?」
「だから方法のホウだってば」
「……」
自分はどっちかのつもりで言ってるんでしょうどね。それじゃわかんないんですってば。

乱数の品質について

http://risupia.panasonic.co.jp/dice/dice.html
ここで、ずーっとサイコロを振っていて思い出した。プログラムするときに組み込み関数の乱数を使うが、いうまでもなくコンピュータは本当にサイコロを振るわけではなく擬似乱数だ。
昔、N88-basicで正方形の紙に砂を撒いて円の中にはいる砂を数え、円周率を求めるというプログラム*1を書いた。砂の数を増やしていくと、だんだん模様が見えてきた。「ひとまわり」してしまったのだろう。授業では使わなかった。
例えばExcelのrand()を使ってサイコロを振るとしたら、何回の試行までは可能なのだろうか?rand()の具体的な中身がわかればよいんだけれどな。time()など使って自分で作ればいいのかしら。

*1:モンテカルロ法だっけ?方か?

さっそくWritely使ってみた

といってもワープロ自体、もう何年も使っていない*1ので、何をしていいかわからない。
でも少なくともwordが立ち上がるのを待つよりずっとストレスなくはじめられる。写真を入れてみたりしたが、やはりスムーズ。たいしたものだ。
それぞれのパソコンにアプリケーションソフトとしてワープロをインストールしたりする必要のない時代が着実に近づいてくる。
なのに先日、職員室に配備された15台のコンピュータ。1台のハードディスクとモノクロプリンタが共有されているだけのまったく閉鎖されたネット環境。wordとexcelpowerpointが使えるだけ。外に出ることはできない。インターネットがつかえないコンピュータなんて、まるで手書きの時代に戻ったような気分だ。古きよき時代の日本。すてきな職場で働けてなんて幸せなんだろう。

*1:実は最近、近将の原稿を書くために初めてwordを使ってみた