掛算順序自由派について学ぶ

前のエントリーに反応があったけど、twitterは全順序じゃなくって順序自由派らしいのでどの順に読めばわからなくなって惚けた頭ではごちゃごちゃ。
そこで、このエントリーに貼付けてみる。

中学1年生を教えるとき、「式」という用語は注意が必要です。
教科書に「1個20円の菓子x個の値段を式で表しなさい」とあると、
20\times x と答える子がでてきます。
それは計算の途中式、答は20x円と書いてねと教える必要があります。

もちろんその子は 20\times x=20xを知っている上で、問題に「式で表せ」とあるのであえて20\times x と答えているわけです。

(いや、これ書きにくいわ。書いているときはurlしか見えないんだものね)


小学校と中学校で式や等号の意味が異なっているわけですね。

私の場合は等号を今までは「は(wa)」と読んでいたと思うが、これからは「イコール」と読めと教えます。
これからは=は右辺と左辺の量が等しいことを表す。計算の結果ではないので⇒ではなく⇔と見えるようになれと(かなり乱暴に)教えます。
(代入の時は←)

1\times x=x だからx=1\times xというのがすぐに必要になります。

中学校の教科書では冪(という名称も教えない)を累乗で教えます。
これも本来だったら新しい演算として取り上げた方が「あぁ中学校に入って新しい計算を教わった」と喜ばせられると思うのですが。
冪を教えないから教科書は「2\times2\times2を累乗の指数を用いて表しなさい」なんてしちめんどくさい表現になります。

なので小学校でもまだ乗法を(あたらしい計算ではなく)累加で教えているものと思っていました。

大学の講義に小中学校での指導法といったものはなかったので、サークルの先輩からかもしれないですね。
もしくは全教ゼミかな。

私は正にその時代の教科書を使っていたんだと思います。
群の定義ができてきたものね。
中学校だと記憶していたけれど小学校だった?

『ジョニーはなぜ足し算ができないか』も読んだっけ。


さいですか。そうなのかもしれません。
もともと黒玄さんの言っていることがよく理解できないんです。


はぁはぁ、けっこう疲れた。とりあえずここまで。まだまだ続きます。

5×3は式なのか数なのか

中学数学の教科書には
4\times a\timesを省いて4aと表す。
というように記述してある。

私はこれには賛成できず、4aは計算の結果だと考えられると説明する。
なぜなら4\times a=4aでもあるがa \times 4=4aでもあるからだ。
4aとなってしまえば、もとの式がなんだったかはもうわからない。つまり4aは計算した結果なのだ。

余談になるが、それゆえ教科書にその後で登場する「3ab\timesなどの記号を使って表しなさい」という問題は苦手だ。
3abぐらいなら生徒には「とにかく素直に、素直に答えなさい」ということでよい。
ところが教科書では調子に乗って(?)、-\displaystyle\frac34ab^2というタイプの問題まで出題されるのだ。
これ、常識的な範囲(-6\div8\times a\times b^3\div bなどは駄目としても)だけでもいくつぐらい正解があるんだ?(だいたい素直な子が多いから採点はさほど苦労しないが模範解答を私には作れない)

さてそれでも私は4\times aは計算結果だとは理解していない。

4aの2項演算を表している。
もしくは4\times aという作用を及ぼすことを表していると理解していた。
このどちらかぐらいだろうと考えていたのだ。

ところが最近twitterで読んだのだが、4\times aがすでに計算結果を表しているという考え方があることを知った。

5\times 3が数と書いてある。

どうも#超算数タグで小学校の先生を批判している方々の言っていることは私には理解できなかった。
だって5\times 44\times 5が同じわけがないではないか。
順序が関係ないのなら5-44-5も同じだというのか?そんなわけはない。
しかし上のtweetを読んで、少しだけ理解できるような気がした。
5\times 33\times 5も数を表しているのだから同じだろうというわけだ。
つまりどちらも15と書いてある、というわけだ。

もちろん、私には賛同できない。

5\times 3は数ではなくて(計算することによって数に写る)式ではないだろうか。


ついでだがこのtweetでは「5\times3が場面を表すかのように説明しています」と書いてある。
が、添付の画像を見てもそんなことは書いていない。

書いてあるのは
「1台に5人ずつの3台分で15人です」という文章を数式では「5\times3=15」と書きます。
ということだ。
式は文章を略記したものだからまったくそのとおりと言わざるをえない。


このように書いてないことをさも書いてあるように語って難癖をつけるのはよくある手段。
といえその主張に疑問を持たせることになる手段だからお薦めできない。

さらにさらについでなので。


大昔に教育学部で勉強していたときは、「乗法は累加で定義されるべきではない」と教わった。
ふ~ん。ペアノの公理の授業(小学校理科の先輩のために少し出た)では累加っぽかったけど、そうなんだ。これが現代化ってやつかと思って聞いていた。つまり古い教科書では数え棒などを使って累加で乗法を教えていたけれど、それでは駄目だという話だった。

でも、このtweetの先生、いろいろ古い資料なども調べているようだけれど、100年も前から(つまり数学教育の現代化が叫ばれる前から)乗法を累加で教えていないと主張される。

オイラの記憶とどっちが正しいんだろう?まぁ、今となってはあまり興味ない話だけれど。

ただオイラの読解力では黒木先生は「乗法は累加で教えるべき」と主張していると思ったんだけど、ここもよくわからない。

広告を消すためのエントリー

このような「学校の教員がアホ」というという批判(というか言いがかりに近いが……)は常にあるもので、反応するに値する物ではない。
もっとも実際私が教壇に立っていたこともあるくらいなのだから「数学を理解していない」教員がいることは間違いないだろう。
実際、先日若い教員が作った定期考査の模範解答を私が採点したら満点にはできなかった。
まぁ、考え方の違いというものだ。

「学校で分からなくなって塾で理解する」とこの方は発言していらっしゃるが、私の家の周辺で増えている「個人指導塾」の先生は大学生らしいが数学専攻というわけでもなく、単にテストの問題を正解するための繰り返し練習しているだけに思える。数学を理解し数学を教えようと努力していると好意的に理解できる状況では全くない。
もっとも学校の若い教員もそのような傾向が年々顕著になってきているように感じるのは……おそらく私が歳をとったせいだろう。

まぁ、私が言いたいのは「他の人間が自分の期待する考え方や動きをしなかったときに、その人間を変えようとか排除しようと考えることはいかがなものかな」ということだけ。

作図は中3の最後にもってきちゃったら?

根が素直で真面目なので、文科省の定めた学習指導要領に沿って作られた教科書にあわせて授業を考える。

1年生の直感数学というのはどうも気持ち悪くて駄目だが、我慢してとにかく教科書に逆らわずに授業をしてきた。

作図は、「なぜこの手順で目的が達成できるのか」という議論を2年生に持ち越して、方法だけを1年生で学ぶ、

普通に考えて意味がわからないが、偉い文科省の歴々が定めたことだから恐らく深い意味があってのことだろう。

そこで色々考えた結果、この単元は試行錯誤を体験させるのが目的だと理解している。

小学校で「テスト」というものを経験し、テストで高得点を取るには問題の解き方をたくさん記憶してその解法を与えられた問題に適応させるのが効率的だ。
どうやって解説するかを考えるより、似た問題を探して解答を読む方が早いのだ。
そして数学を学ぶとは解き方を覚えることだと思い込んでいく。

そこでここら辺で、「基本の作図だけ教えるから、あとはなんとか色々考えて自由にやってみ」と突き放す機会を作ろうという意図ではなかろうか。
「先生、この問題の解き方、まだ習っていません」なんて本気で言ってしまう生徒が何をしていいのか途方に暮れてしまうような問題に向き合わせる。
そして少しずつ、解らないなりに色々試してみはじめる--手を動かし始めるのをじっと待つ。

もう一つの理由は、これから2年生・3年生で初等幾何を学ぶ。
そこでは当然、図を描く。
そのために1年生で作図を学んでおくのだと理解していた。

しかし、昨今の状況を考えると、2つの理由がだんだん言い訳っぽく思えてきた。

試行錯誤を経験させる、あわよくば数学の問題なんて何も勉強していなくても普通の人生経験があれば色々考えればなんとかなることを気付かせたい。
しかし、そのためには時間が必要だ。
これがなかなか確保できない。(ここには人員配置の問題が大きいのだが……)

また最近は、2年生・3年生の図形の授業でも生徒に図を描かせない授業をすることが多い。
(そういう教員が多いと言うこと)
図形の授業なのにコンパス・定規を持ってこない生徒までいる。
授業プリントにすでに印刷されていたり、PCやタブレットで提示してしまうからだ。

1年生で作図を学んでおく意味は薄れた。

それだったら、1年生ではcinderella.2とか作図ソフトを導入して、簡単に綺麗な図を描く方法を学んだ方が良いのではないか。
そして3年の最後に中学数学の総まとめとして古典的作図に挑戦させる。
本来作図問題は、円周角も相似も三平方も2次方程式も総動員する必要があるものなのだ。

そして角の三等分問題も取り上げて、「不可能の証明」を数学ではできる。
それは高校数学で学んで欲しい。
こうまとめて卒業させる。

どうですかね。

平行四辺形の性質の証明

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中学2年生の教科書には平行四辺形の性質が次のように記述されている。

平行四辺形の性質
  1. 2組の対辺がそれぞれ等しい。
  2. 2組の対角がそれぞれ等しい。
  3. 対角線がそれぞれの中点で交わる。

つまりは平行四辺形は点対称だということだ。

点対称とは180度回転しても合同な図形だと言うことだから、上の性質では3番が本質だといえる。
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すなわちOA=OC, OB=ODを示すことで、対角線の交点Oが回転の中心であり、AがCに、BがDに180度の回転移動で移ることが示される。

ところが3番をいきなり証明しよう、すなわち\triangle OAB\equiv\triangle OCDを示そうとしてもうまくいかない。
平行四辺形という仮定(2組の対辺がそれぞれ平行)だけでは、どこも辺が等しいことがいえないからだ。

そこで1番を先に証明することが必要になる。

まとめると平行四辺形の性質は

  • 3が本質。
  • 1は3を証明するための補題
  • 2は1の証明から獲れるオマケ。

このように理解していた。

しかし、よく考えてみると、1番の証明をすればもう充分という気がしてきた。

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1番の証明をするためには角辺角の合同条件を用いて\triangle ABC\equiv\triangle CDAを示す。

これで直感的には平行四辺形が点対称だと主張しても良さそうだ。
点対称であることを証明するには平行四辺形ABCDと平行四辺形CDABが合同であることを示せば良い。
それは分解して\triangle ABC\equiv\triangle CDA\triangle ACD\equiv\triangle CABを示すことになるが、この2つは同じことだからだ。

合同な図形の対応する長さや角の大きさは等しいので、ACの中点をOとすると、中線の長さが等しいこともいえるから、OB=OD。さらに \angle AOB=\angle CODもいえるので、\angle BOD=180°もいえる。

過去の実践は批判されるものなれど

19452051.at.webry.info
この記事の中の次の部分に関して

その後の国分一太郎無着成恭批判が出てきたときは、不愉快でした。
精いっぱいやっていた人の実践を、後の者が批判するのは簡単ですが、私は好きません。
特に、亡くなった人の実践を批判するのは、私の性格から許せないのです。
(まあ、人付き合いが下手な証拠ですけどね)

twitterで次のような反応がありました。

批判すべき点があるのに批判しないのは、その方が失礼。
この東海地区数教協の人は、批判=やってはいけないこと と思っていそう

「批判すべき点があるのに批判しないのは、その方が失礼。」
という命題はその通りだと思いますが、
「批判=やってはいけないこと と思っていそう」という判断はどうかなと思います。

おそらく「不愉快」といった感情的な用語に目が行ったのだと思いますが、
「後の者が批判するのは簡単」という言葉から違う受け取り方をしました。
不愉快に思ったのは批判すること自体ではなくて、その批判の質なのではないでしょうか。

例えば……

  • エウクレイデスの「原論」を、現代数学を学んだ人が「論理が雑」と批判する。
  • 藤堂明保の「漢和大字典」を、現代の人が批判する。(まだ中国の発掘が情報が少なかった時代の仕事ということを無視して)
  • 昔の恐竜の絵を、「なんだこれ、毛も生えてないぞ」と現代の人が批判する。
  • 瀉血を、現代の人が「無知で野蛮」と批判する。

そういえば、何年か前に戦争中に突然現代の民主主義の教育を受けた子どもがタイムリープしたんじゃないかというような違和感をもつ小説が流行りましたっけ。
例が適切かどうか自信がありませんが、私が言いたいことは通じるだろうと信じましょう。

人はどうしたって時代の制約の中で生きているのに、それを無視した批判は滑稽です。

…と、受け取ったのですが、私は国分一太郎無着成恭も名前しか知りません。(ラジオは聞いたかも)
ここら辺に絡みそうな本で読んだことがあるのは寒川道夫の「山芋」だけです。
どんな批判がされたのかも想像もつかないので見当違いの事を書いているだけの可能性も高いです。

数学教育でいえば、遠山啓はピアジェの「発達心理学」の時代の人です。
その後に発達してきた、認知心理学行動経済学などの知見を知り得ません。
もし遠山啓が現代に生きていたら、いったいどんな算数・数学教育にどんな提案をしたのか?
(私には全然わからない)

ついでに思い出した本。

まだあるのかな?

教員の力量向上に資するものは

ちょっと切り取りすぎているので解説しておきますと、積分定数さんは「数教協で学んだ教員の方がTOSSで学んだ教員よりひどい教育をしている。結果から判断して数教協の方がTOSSより悪い。民主的に議論してダメな教員作るより、独裁者がフツーの教員を作るほうがずっとマシだ」という主張をされています。

「数教協で学んだ教員の方がTOSSで学んだ教員よりひどい教育をしている。」
という部分に関しては賛意も異議もありません。
そりゃそういうこともあるだろうし、逆の場合もあるだろうしと感想を持つだけです。
私自身はどちらの団体にも所属していませんし、それが事実かどうか検証しようという熱意も興味もありません。

異議を申しあげたいのは、その後の部分です。

数教協もTOSSも民間教育団体ですが、その大きな目的はそこに参加してくる一人一人の教員がそれぞれの力量を向上させることでしょう。
だとしたら、その中身が相互で議論してよい実践に学んだり自分の実践を発表して批判され考えを深め成長していくというスタイルなのか、教祖がABC評価をしてA評価の実践を皆が真似をするというスタイルなのかは本質的な問題です。

TOSSはまさに「とりあえずましな授業ができるよ」と売り出したのだと思います。
ワイワイ騒ぐだけでちっともいうことをきかない子ども達を前に困惑している教員。
そういう教員たちをターゲットに、「うちに金を払ってうちのいうとおりにやれば、とりあえず授業しているような見かけは作れますよ」とすりよってTOSSは金儲けしてきました。
「こうすれば学校予算でTOSSの教具を購入できまっせ」と手取り足取り。

でも、それで本当にその教員は成長したのでしょうか。

一人一人異なる子どもに対応できる教員になれるのでしょうか。
時代によって変わってくる教育理論や子ども観に対応していけるのでしょうか。

生まれるのは教えている子ども全員に「必ず分数の線と=は定木で書きなさい」と強制する教員というのが現実なのではないですか?

たとえ即効性はなくても自分の頭で考え、目の前の子どもと格闘し、失敗したり成功したりしながら成長するというのが教員が力量をつけていく道筋だと考えます。

なお蛇足ながら積分定数さん以外の読者のために断っておきますが、私は個人的にムケ山さんは大嫌いですが、数教協にしろTOSSにしろ、そこに貴重な休みに自腹で金を出して学びに行く教員は向上心を持った尊敬できる方々だと思っています。たとえ教え方は下手くそでも、その事実だけでも充分に子ども達を陶冶するものと思います。