読書メモ:「覚える」と「わかる」

 ここのところの興味の一つ「知性とは何か」の系列で読んだ1冊。
何冊か並行して読んでいるが、新書なので風呂2回で読了。
 第1章と第2章は私の問題意識にそった内容で特に目新しい部分は見当たらなかったが、すいすいと読めた。
第3章~第5章は、どうも書名から想像していたのとずれた内容で、あまり興味は引かれなかった。
ちょっと論理が雑すぎる気がしたが、新書でそれなりに詰め込みたかったという理由だろうか。

 ひとつ気になったところ。

ここで「途中の三つの式は何を表しているかはっきりしない」と書いてある。しかし

5x+(3x+30)=430 は消しゴム3個では鉛筆3本より30円高いことを表しており、
5x+3x+30=430-30 は全部鉛筆だった場合の代金を求めようとしている。
8x=400 は全部鉛筆だったときの代金だ。

算数だったら
全部鉛筆だったら 10\times3=30 円安いので
総額は 430-30=400 円となる。
これは鉛筆8本のときの代金なので1本の値段は 400/8=50
にきちんと対応している。

つまり方程式は形式操作で解けるが、算数ではひとつずつ意味を考えなければ計算できないところを紙と鉛筆が代わりに考えてくれる仕組みなのだ。

読書メモ:アンリ・ブリュラールの生涯 (追記)

数学とは関係ないのだが、面白いと思ったところ。

ある日、祖父はライアンヌ師に言った。
「でも、先生、あなたはなぜこの子にプトレマイオスの天体説を教えるのですか、それが間違いだと知っておられるのに?」
「しかしそれですべてが説明できるのです。そしてそのうえ、教会によって公認されています」。

ガリレオの『天文対話』が1632年。
それから250年も経っているのに、家庭教師は地動説ではなく天動説をスタンダールに教えている。

長い間に天動説がいかに磨き上げられ精密になってきたかということだろうか。
そしてまだまだ地動説では精度が足りなかった。

それとも単にライアンヌ師が教会に従順であったということか。

読書メモ:アンリ・ブリュラールの生涯

いきなりこのブログにそぐわないタイトルの本と訝しんだ方のために説明しよう。
アンリ・ブリュラールとは文豪スタンダールの本名。この本はスタンダールの自伝なのだ。
それでもまだわからない?

スタンダールは「負の数×負の数が正の数になるなんておかしい、借金に借金をかけてなんで財産になるというのだ」ということを語った文豪として有名なのだ。中学1年生で負の数の乗法を教えるときに欠かせないエピソード。ネットでもよく「文豪でさえも負の数の計算が理解できなかった」という文脈で紹介される。
例⇒(負の数と整数)
例⇒実は、公式を丸暗記している人でも、数式が何を表しているのかわかっていないということも。『赤と黒』で有名な文豪スタンダールも「マイナス×マイナス=プラス」になることが納得できなかった一人で、「借金×借金がどうして財産になるのか!」と自伝の中で書いているとか。(「借金×借金=財産!?」あの文豪も理解できなかった「マイナス×マイナス=プラス」になる理由がわかる『新版 なぜ分数の割り算はひっくり返すのか?』発売)

実際、負の数が日常的に必要になるのは商業が発達してから以降だろう。キリスト教世界に負の数は必要ない。イスラム教から負の数は必要になる。日本でも江戸時代は方程式を係数が正になるように無駄に細かく分類していたし、負の数の解が出ると「病根」として捨てていたようだ。

しかし、授業では「スタンダールが」とは語らずに「某文豪も理解できなかったらしい」と語ることにしていた。
というのはスタンダールは19世紀フランスの作家。フランス革命の時代。いくらなんでも負の数の乗法が理解できないのは眉唾だろう。
いつかちゃんと裏を取らないといけないと思いつつ、教員生活現役中にはその時間が取れず、引退した今、やっと確認したという次第だ。

結論から言おう。
スタンダールはちゃんと理解している。
彼の名誉を回復するべきだ。

まず「小説家だから数学は苦手だったのだろう」と考えていたが、そうではなかった。
彼は故郷のグルノーブルを脱出し、パリに行くために1799年理工科学校に入学する。そうあのガロア1828年に不合格になる学校だ。

「一万フランの負債に五百フランの負債を乗じて、どのようにしてこの男は五百万フランの財産をえるにいたるだろう?」
という一節は確かに存在する。
しかし、それが正しいであろうことは理解しているのだが、教師は「受け入れて覚えろ」というだけで、誰もなぜそうなるのかを説明しようとはしなかったということなのだ。
あるときは先生にこういわれている。
オイラーラグランジュも、君と劣らぬ秀才だが、ちゃんとそれを認めている」
スタンダールオイラーラグランジュに比されるほど数学が得意だったのだ。

スタンダールは教員のいうことを丸呑みすることを潔しとせず、自分で納得するまで考える優秀な生徒だったというエピソードだったのだ。

やはり、ちゃんと原典にあたってみることは必要だな。

なお、自分で読んでみたい方にアドバイスすると、この本は未完の作品だ。
子どもの頃の話だろうと上巻を探しても出てこない。
下巻の中ほどにでてくるお話だった。

読書メモ:ギリシア神話の名画はなぜこんなに面白いのか

ギリシャ神話は名画でわかる』と似たような本だが、あちらは「神話が現在のように形作られたのはオウィディウスルネサンスの画家による」という主張があるのに対し、こちらは気軽に読める。
しかしこのような軽い読み物は良い。抑えておくべきギリシャ神話のミニ知識も豊富に散りばめられている。
また本物の絵を見に行くには何処に行けば良いのかがきちんと示されていて親切だ。紹介されていない有名な作品の在処も載っている。この本を持って世界中の美術館をまわるのも楽しいだろう。

そして驚くべきは全ページカラー印刷で(とても小さいが)絵が豊富に紹介されている。『ギリシャ神話は名画でわかる』と対照的だ。こちらの方が安いのに、とてもよく頑張っていると言って良いだろう。

パンドラの壺がいつのまにかパンドラの匣に変わってしまったのはエラスムスの間違いが原因だそうだ。
プシュケーがペルセフォネから贈られた「眠り」の入った小箱と混同したとのこと。

ところでアルゴ探検隊の話は紀元前12世紀には成立していたという最古の英雄冒険譚なのに、私は読んだことがない。映画にもなっているから有名な話なんだろうけどな。ヘラクレスが途中で脱落するとか、のちに何度も登場する金の羊毛とか面白そうだ。

読書メモ:ギリシャ神話は名画でわかる

ギリシャ神話は中学生の頃よく読んだので、日本人の平均よりは詳しいと思っていたが、なんとも基本的なことも知らなかったと思い知らされたことが多かった。

  • 土星のサターン(Saturn)はサトゥルヌス(Saturnus)の英語読み。すなわちクロノス(Kronos)だった。

ちょっと考えてみればサタン(Satan)のわけはないのだが、クロノスとは思いもよらなかった。
それは私がクロノスは時間の神と思い込んでいたからだ。(クロックとかクロノメータの語源)
ギリシャ神話における第1世代の王ウラノスが天空の神、その子どものクロノスが時間の神。そして第3世代のゼウスに覇権を奪われるのだが、空間と時間で「宇宙」ないしは「時空」を表していると勝手読みで納得していたわけだ。
その時間の神が土星のわけがないと思っていた。

  • クロノス(Κρόνος, Kronos)は農耕の神で、時間の神のクロノス(Χρόνος, Chronus)とは別の神様だった。

しかもこの神様、ペレキュデスという名前も知らなかった哲学者の現存しない著作にしか登場しない神様だという。(なぜそれがクロノメータなどの語源になる?)

中学生の頃に読んだのは『ギリシャ神話』と題された本を何冊か、そして『イーリヤス』『オデュッセイア』だ。あとは岩波文庫に入っていたギリシャ悲劇、岩波新書に入っていたギリシャ神話関連の本。
ヘシオドスは最近読んだ。
ところがヨーロッパでギリシャ神話の決定版として読まれたのはこれらではないという。

オウィディウスは『愛の技法』は読んだのだが、ローマ時代の人だし『変身物語』はまったく手をつけていなかった。(持ってはいた)昔は『転身譚』みたいなタイトルだった記憶はある。

ギリシャ神話がギリシャ語で書かれていたら、そんなに広まるはずはなかった。
ラテン語で書かれ、それがヨーロッパの各国の言葉に翻訳されたから、ギリシャ神話が広まったということかな。

とにかく『変身物語』を読まねば!

読書メモ:ABC予想入門

 まったくわからなかったが、この本のおかげでかなりわかった。
 何を言っているのか我ながらわからない文章だ。順番に書くと、先に読んだのが次の本。

 これは数学素人の一般人に向けて書かれた本なのだが、肝腎のABC予想やその証明の話の周辺をぐるぐる回っているばかりで、ちっとも核心に入らないまま終わってしまうのだ。

 『ABC予想入門』はもちろん内容はわからないのだけれど、何を勉強すればよいかがわかるし、いろいろな数学分野との関連もわかってくる。まさにタイトル通りの入門書で、良い本だと思った。

 やはり数学関連の本はちゃんと数式使わなくてはよけいわからないよね。

掛算順序自由派について学ぶ

前のエントリーに反応があったけど、twitterは全順序じゃなくって順序自由派らしいのでどの順に読めばわからなくなって惚けた頭ではごちゃごちゃ。
そこで、このエントリーに貼付けてみる。

中学1年生を教えるとき、「式」という用語は注意が必要です。
教科書に「1個20円の菓子x個の値段を式で表しなさい」とあると、
20\times x と答える子がでてきます。
それは計算の途中式、答は20x円と書いてねと教える必要があります。

もちろんその子は 20\times x=20xを知っている上で、問題に「式で表せ」とあるのであえて20\times x と答えているわけです。

(いや、これ書きにくいわ。書いているときはurlしか見えないんだものね)


小学校と中学校で式や等号の意味が異なっているわけですね。

私の場合は等号を今までは「は(wa)」と読んでいたと思うが、これからは「イコール」と読めと教えます。
これからは=は右辺と左辺の量が等しいことを表す。計算の結果ではないので⇒ではなく⇔と見えるようになれと(かなり乱暴に)教えます。
(代入の時は←)

1\times x=x だからx=1\times xというのがすぐに必要になります。

中学校の教科書では冪(という名称も教えない)を累乗で教えます。
これも本来だったら新しい演算として取り上げた方が「あぁ中学校に入って新しい計算を教わった」と喜ばせられると思うのですが。
冪を教えないから教科書は「2\times2\times2を累乗の指数を用いて表しなさい」なんてしちめんどくさい表現になります。

なので小学校でもまだ乗法を(あたらしい計算ではなく)累加で教えているものと思っていました。

大学の講義に小中学校での指導法といったものはなかったので、サークルの先輩からかもしれないですね。
もしくは全教ゼミかな。

私は正にその時代の教科書を使っていたんだと思います。
群の定義ができてきたものね。
中学校だと記憶していたけれど小学校だった?

『ジョニーはなぜ足し算ができないか』も読んだっけ。


さいですか。そうなのかもしれません。
もともと黒玄さんの言っていることがよく理解できないんです。


はぁはぁ、けっこう疲れた。とりあえずここまで。まだまだ続きます。