読書メモ:アンリ・ブリュラールの生涯
いきなりこのブログにそぐわないタイトルの本と訝しんだ方のために説明しよう。
アンリ・ブリュラールとは文豪スタンダールの本名。この本はスタンダールの自伝なのだ。
それでもまだわからない?
スタンダールは「負の数×負の数が正の数になるなんておかしい、借金に借金をかけてなんで財産になるというのだ」ということを語った文豪として有名なのだ。中学1年生で負の数の乗法を教えるときに欠かせないエピソード。ネットでもよく「文豪でさえも負の数の計算が理解できなかった」という文脈で紹介される。
例⇒(負の数と整数)
例⇒実は、公式を丸暗記している人でも、数式が何を表しているのかわかっていないということも。『赤と黒』で有名な文豪スタンダールも「マイナス×マイナス=プラス」になることが納得できなかった一人で、「借金×借金がどうして財産になるのか!」と自伝の中で書いているとか。(「借金×借金=財産!?」あの文豪も理解できなかった「マイナス×マイナス=プラス」になる理由がわかる『新版 なぜ分数の割り算はひっくり返すのか?』発売)
実際、負の数が日常的に必要になるのは商業が発達してから以降だろう。キリスト教世界に負の数は必要ない。イスラム教から負の数は必要になる。日本でも江戸時代は方程式を係数が正になるように無駄に細かく分類していたし、負の数の解が出ると「病根」として捨てていたようだ。
しかし、授業では「スタンダールが」とは語らずに「某文豪も理解できなかったらしい」と語ることにしていた。
というのはスタンダールは19世紀フランスの作家。フランス革命の時代。いくらなんでも負の数の乗法が理解できないのは眉唾だろう。
いつかちゃんと裏を取らないといけないと思いつつ、教員生活現役中にはその時間が取れず、引退した今、やっと確認したという次第だ。
結論から言おう。
スタンダールはちゃんと理解している。
彼の名誉を回復するべきだ。
まず「小説家だから数学は苦手だったのだろう」と考えていたが、そうではなかった。
彼は故郷のグルノーブルを脱出し、パリに行くために1799年理工科学校に入学する。そうあのガロアが1828年に不合格になる学校だ。
「一万フランの負債に五百フランの負債を乗じて、どのようにしてこの男は五百万フランの財産をえるにいたるだろう?」
という一節は確かに存在する。
しかし、それが正しいであろうことは理解しているのだが、教師は「受け入れて覚えろ」というだけで、誰もなぜそうなるのかを説明しようとはしなかったということなのだ。
あるときは先生にこういわれている。
「オイラーもラグランジュも、君と劣らぬ秀才だが、ちゃんとそれを認めている」
スタンダールはオイラーやラグランジュに比されるほど数学が得意だったのだ。
スタンダールは教員のいうことを丸呑みすることを潔しとせず、自分で納得するまで考える優秀な生徒だったというエピソードだったのだ。
やはり、ちゃんと原典にあたってみることは必要だな。
なお、自分で読んでみたい方にアドバイスすると、この本は未完の作品だ。
子どもの頃の話だろうと上巻を探しても出てこない。
下巻の中ほどにでてくるお話だった。
読書メモ:ギリシア神話の名画はなぜこんなに面白いのか
『ギリシャ神話は名画でわかる』と似たような本だが、あちらは「神話が現在のように形作られたのはオウィディウスとルネサンスの画家による」という主張があるのに対し、こちらは気軽に読める。
しかしこのような軽い読み物は良い。抑えておくべきギリシャ神話のミニ知識も豊富に散りばめられている。
また本物の絵を見に行くには何処に行けば良いのかがきちんと示されていて親切だ。紹介されていない有名な作品の在処も載っている。この本を持って世界中の美術館をまわるのも楽しいだろう。
そして驚くべきは全ページカラー印刷で(とても小さいが)絵が豊富に紹介されている。『ギリシャ神話は名画でわかる』と対照的だ。こちらの方が安いのに、とてもよく頑張っていると言って良いだろう。
パンドラの壺がいつのまにかパンドラの匣に変わってしまったのはエラスムスの間違いが原因だそうだ。
プシュケーがペルセフォネから贈られた「眠り」の入った小箱と混同したとのこと。
ところでアルゴ探検隊の話は紀元前12世紀には成立していたという最古の英雄冒険譚なのに、私は読んだことがない。映画にもなっているから有名な話なんだろうけどな。ヘラクレスが途中で脱落するとか、のちに何度も登場する金の羊毛とか面白そうだ。
読書メモ:ギリシャ神話は名画でわかる
ギリシャ神話は中学生の頃よく読んだので、日本人の平均よりは詳しいと思っていたが、なんとも基本的なことも知らなかったと思い知らされたことが多かった。
- 土星のサターン(Saturn)はサトゥルヌス(Saturnus)の英語読み。すなわちクロノス(Kronos)だった。
ちょっと考えてみればサタン(Satan)のわけはないのだが、クロノスとは思いもよらなかった。
それは私がクロノスは時間の神と思い込んでいたからだ。(クロックとかクロノメータの語源)
ギリシャ神話における第1世代の王ウラノスが天空の神、その子どものクロノスが時間の神。そして第3世代のゼウスに覇権を奪われるのだが、空間と時間で「宇宙」ないしは「時空」を表していると勝手読みで納得していたわけだ。
その時間の神が土星のわけがないと思っていた。
- クロノス(Κρόνος, Kronos)は農耕の神で、時間の神のクロノス(Χρόνος, Chronus)とは別の神様だった。
しかもこの神様、ペレキュデスという名前も知らなかった哲学者の現存しない著作にしか登場しない神様だという。(なぜそれがクロノメータなどの語源になる?)
中学生の頃に読んだのは『ギリシャ神話』と題された本を何冊か、そして『イーリヤス』『オデュッセイア』だ。あとは岩波文庫に入っていたギリシャ悲劇、岩波新書に入っていたギリシャ神話関連の本。
ヘシオドスは最近読んだ。
ところがヨーロッパでギリシャ神話の決定版として読まれたのはこれらではないという。
- オウィディウス『変身物語』
ギリシャ神話がギリシャ語で書かれていたら、そんなに広まるはずはなかった。
ラテン語で書かれ、それがヨーロッパの各国の言葉に翻訳されたから、ギリシャ神話が広まったということかな。
とにかく『変身物語』を読まねば!
読書メモ:ABC予想入門
掛算順序自由派について学ぶ
前のエントリーに反応があったけど、twitterは全順序じゃなくって順序自由派らしいのでどの順に読めばわからなくなって惚けた頭ではごちゃごちゃ。
そこで、このエントリーに貼付けてみる。
5×3は式なのか数なのか - 中学数学教材研究ノート++ https://t.co/9rxJb6fp5s #超算数
— 風みどり🌖 (@kazemidori) 2023年4月10日
これは新しいエントリー
文字式は、文字の具体的な値が与えられない以上、それ以上、数どうしの演算のように計算を実行できないので、文字式は計算のプログラム(演算、求め方)を表す、つまり、式である、と同時に、その結果を表すようになります。 pic.twitter.com/3uja5pUW1S
— kistenkasten723 (@flute23432) 2023年4月10日
1000円もっていって、150円の墨汁をx本買ったときの代金は、(1000-150x)円です。式が同時に答えです。
— kistenkasten723 (@flute23432) 2023年4月10日
中学1年生を教えるとき、「式」という用語は注意が必要です。
教科書に「1個20円の菓子個の値段を式で表しなさい」とあると、
と答える子がでてきます。
それは計算の途中式、答は円と書いてねと教える必要があります。
もちろんその子は を知っている上で、問題に「式で表せ」とあるのであえて と答えているわけです。
(いや、これ書きにくいわ。書いているときはurlしか見えないんだものね)
算数では、小6に文字を使った式を学びますが、基本は、文字を使わない、数どうしの演算を学びます。ですから、過程と結果、式と値は別物で、左辺が演算(たとえば、かけ算の式)で、右辺は、その演算を実行した結果(答え)です。
— kistenkasten723 (@flute23432) 2023年4月10日
算数でも、等号は左辺と右辺が等しいことを表す、ということ(等号の関係的意味 relational sense)は学びますが、まだまだ、計算の結果を導く記号のという操作的な意味(operational)を保持しています。算数では、左辺と右辺はまだ同時ではないのです。
— kistenkasten723 (@flute23432) 2023年4月10日
小学校と中学校で式や等号の意味が異なっているわけですね。
私の場合は等号を今までは「は(wa)」と読んでいたと思うが、これからは「イコール」と読めと教えます。
これからは=は右辺と左辺の量が等しいことを表す。計算の結果ではないので⇒ではなく⇔と見えるようになれと(かなり乱暴に)教えます。
(代入の時は←)
だからというのがすぐに必要になります。
「100年も前から(つまり数学教育の現代化が叫ばれる前から)乗法を累加で教えていないと主張される。」
— kistenkasten723 (@flute23432) 2023年4月10日
これは、黒玄氏の主張の再現としては、誤っています。100年も前からと言っているのは、〈かけ算の順序〉指導です。
「乗法を累加で教えていない」というのは、現在の算数教育について、言っていると思います。現在は、かけ算は同数累加ではなく、同数グループで教えられています。各グループの構成員数が1つ分の数、グループの数がいくつ分です。 pic.twitter.com/2gcOatRw0z
— kistenkasten723 (@flute23432) 2023年4月10日
戦前は、緑表紙時代など例外はありますが、かけ算は同数累加(repeated addition)で、教えられてきました。戦後は、1950年代が同数累加、1960年代・1970年代が倍、1980年代以降が、同数グループ(equal groups)です。
— kistenkasten723 (@flute23432) 2023年4月10日
同数累加の定義において、同数グループの1つ分の数といくつ分に相当するのは、かけられる数とかける数(被乗数と乗数)です。4+4+4+4+4のように同じ数の足し算を、短く4×5と、かけられる数(繰り返される)数とかける数(繰り返し回数)を使って短く表現したものが、かけ算です。
— kistenkasten723 (@flute23432) 2023年4月10日
中学校の教科書では冪(という名称も教えない)を累乗で教えます。
これも本来だったら新しい演算として取り上げた方が「あぁ中学校に入って新しい計算を教わった」と喜ばせられると思うのですが。
冪を教えないから教科書は「を累乗の指数を用いて表しなさい」なんてしちめんどくさい表現になります。
なので小学校でもまだ乗法を(あたらしい計算ではなく)累加で教えているものと思っていました。
遠山啓と数教協系の教師は、かけ算が足し算とは独立の演算であることを強調し、現在の算数の定義もその影響を受けています。しかし、一般には、同数累加という言葉で、同数グループも含めて言われていることは、珍しくありません。
— kistenkasten723 (@flute23432) 2023年4月10日
「大昔に教育学部で勉強していたときは、「乗法は累加で定義されるべきではない」と教わった。」
— kistenkasten723 (@flute23432) 2023年4月10日
数教協系の大学講師から学んだからでは?
大学の講義に小中学校での指導法といったものはなかったので、サークルの先輩からかもしれないですね。
もしくは全教ゼミかな。
「これが現代化ってやつかと思って聞いていた。」
— kistenkasten723 (@flute23432) 2023年4月10日
これも誤解。たしかに、遠山啓も数学教育の現代化を目指しましたが、ふつう、現代化と呼ばれるのは、スプートニックショックを契機として、1960年代にアメリカから始まった、数学教育の現代化の運動、New Math運動です。
日本は、その余波を受けて、1970年代に、集合や位相、等式の性質などが、小学校算数で教えられました。多くの児童が、算数がわからなくなり、算数が嫌いな科目の筆頭になりました。この無謀な試みは、当然のことですが、頓挫したのです。
— kistenkasten723 (@flute23432) 2023年4月10日
私は正にその時代の教科書を使っていたんだと思います。
群の定義ができてきたものね。
中学校だと記憶していたけれど小学校だった?
『ジョニーはなぜ足し算ができないか』も読んだっけ。
「100年も前から(つまり数学教育の現代化が叫ばれる前から)乗法を累加で教えていないと主張される。」
— kistenkasten723 (@flute23432) 2023年4月10日
あなたのなかでは、100年前から続く順序指導、紀元前からある同数累加のかけ算定義と、1960年代~1970年代に起きた現代化が、ゴチャゴチャになっています。
さいですか。そうなのかもしれません。
もともと黒玄さんの言っていることがよく理解できないんです。
「数に数を掛けるといわれるのは、後者の中にある単位の数と同じ回数だけ前者、すなわち【掛けられる数】が加え合わされてなんらかの数が生ずるときである。」
— kistenkasten723 (@flute23432) 2023年4月10日
ユークリッド『幾何学原論』第7巻定義16 中央公論新社、ギリシアの科学 p.331
「このように書いてないことをさも書いてあるように語って難癖をつける」
— kistenkasten723 (@flute23432) 2023年4月10日
算数教科書を見たら、別のページに書いてありました(画像赤線部分)。 pic.twitter.com/dK0UsKglhI
私は、黒玄氏と対照的に、演算の式を、場面を表すものとして教えるのに賛成です。児童は、日常的な具体物の変化や配列などの、具体的な状況からではないと、数学的演算のような抽象的操作を理解できないので、式を場面に強力に関係づけて教えるのがよいと思っています。
— kistenkasten723 (@flute23432) 2023年4月10日
はぁはぁ、けっこう疲れた。とりあえずここまで。まだまだ続きます。
5×3は式なのか数なのか
中学数学の教科書には
をを省いてと表す。
というように記述してある。
私はこれには賛成できず、は計算の結果だと考えられると説明する。
なぜならでもあるがでもあるからだ。
となってしまえば、もとの式がなんだったかはもうわからない。つまりは計算した結果なのだ。
余談になるが、それゆえ教科書にその後で登場する「をなどの記号を使って表しなさい」という問題は苦手だ。
ぐらいなら生徒には「とにかく素直に、素直に答えなさい」ということでよい。
ところが教科書では調子に乗って(?)、というタイプの問題まで出題されるのだ。
これ、常識的な範囲(などは駄目としても)だけでもいくつぐらい正解があるんだ?(だいたい素直な子が多いから採点はさほど苦労しないが模範解答を私には作れない)
さてそれでも私はは計算結果だとは理解していない。
との2項演算を表している。
もしくはにという作用を及ぼすことを表していると理解していた。
このどちらかぐらいだろうと考えていたのだ。
ところが最近twitterで読んだのだが、がすでに計算結果を表しているという考え方があることを知った。
#超算数 添付画像のような場面において、5×3という式は
— 黒木玄 Gen Kuroki (@genkuroki) 2023年4月4日
❌1台に5人ずつの3台分の場面
でがなく、
⭕️1台に5人ずつの3台分の全部の人数
を表すはずなのに、5×3が数ではなく、場面を表すかのように説明しています。この疑いは次のページ以降で確定します。 pic.twitter.com/HzRZiamtqp
が数と書いてある。
どうも#超算数タグで小学校の先生を批判している方々の言っていることは私には理解できなかった。
だってとが同じわけがないではないか。
順序が関係ないのならもも同じだというのか?そんなわけはない。
しかし上のtweetを読んで、少しだけ理解できるような気がした。
もも数を表しているのだから同じだろうというわけだ。
つまりどちらもと書いてある、というわけだ。
もちろん、私には賛同できない。
は数ではなくて(計算することによって数に写る)式ではないだろうか。
ついでだがこのtweetでは「が場面を表すかのように説明しています」と書いてある。
が、添付の画像を見てもそんなことは書いていない。
書いてあるのは
「1台に5人ずつの3台分で15人です」という文章を数式では「」と書きます。
ということだ。
式は文章を略記したものだからまったくそのとおりと言わざるをえない。
このように書いてないことをさも書いてあるように語って難癖をつけるのはよくある手段。
といえその主張に疑問を持たせることになる手段だからお薦めできない。
さらにさらについでなので。
#超算数 現代の算数の教科書では5×3を5+5+5で定義して__いません__。
— 黒木玄 Gen Kuroki (@genkuroki) 2023年4月4日
この点について誤解している反応は10年以上議論に遅れているので注意してください。
現代の算数の教科書では「5×3は5個を含む集まりが3つある場面を表す」ことをにおわす酷い説明の仕方になっています。
この点への批判が重要。
大昔に教育学部で勉強していたときは、「乗法は累加で定義されるべきではない」と教わった。
ふ~ん。ペアノの公理の授業(小学校理科の先輩のために少し出た)では累加っぽかったけど、そうなんだ。これが現代化ってやつかと思って聞いていた。つまり古い教科書では数え棒などを使って累加で乗法を教えていたけれど、それでは駄目だという話だった。
でも、このtweetの先生、いろいろ古い資料なども調べているようだけれど、100年も前から(つまり数学教育の現代化が叫ばれる前から)乗法を累加で教えていないと主張される。
オイラの記憶とどっちが正しいんだろう?まぁ、今となってはあまり興味ない話だけれど。
ただオイラの読解力では黒木先生は「乗法は累加で教えるべき」と主張していると思ったんだけど、ここもよくわからない。