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この記事の中の次の部分に関して
その後の国分一太郎や無着成恭批判が出てきたときは、不愉快でした。
精いっぱいやっていた人の実践を、後の者が批判するのは簡単ですが、私は好きません。
特に、亡くなった人の実践を批判するのは、私の性格から許せないのです。
(まあ、人付き合いが下手な証拠ですけどね)
twitterで次のような反応がありました。
批判すべき点があるのに批判しないのは、その方が失礼。
この東海地区数教協の人は、批判=やってはいけないこと と思っていそう
「批判すべき点があるのに批判しないのは、その方が失礼。」
という命題はその通りだと思いますが、
「批判=やってはいけないこと と思っていそう」という判断はどうかなと思います。
おそらく「不愉快」といった感情的な用語に目が行ったのだと思いますが、
「後の者が批判するのは簡単」という言葉から違う受け取り方をしました。
不愉快に思ったのは批判すること自体ではなくて、その批判の質なのではないでしょうか。
例えば……
- エウクレイデスの「原論」を、現代数学を学んだ人が「論理が雑」と批判する。
- 藤堂明保の「漢和大字典」を、現代の人が批判する。(まだ中国の発掘が情報が少なかった時代の仕事ということを無視して)
- 昔の恐竜の絵を、「なんだこれ、毛も生えてないぞ」と現代の人が批判する。
- 瀉血を、現代の人が「無知で野蛮」と批判する。
そういえば、何年か前に戦争中に突然現代の民主主義の教育を受けた子どもがタイムリープしたんじゃないかというような違和感をもつ小説が流行りましたっけ。
例が適切かどうか自信がありませんが、私が言いたいことは通じるだろうと信じましょう。
人はどうしたって時代の制約の中で生きているのに、それを無視した批判は滑稽です。
…と、受け取ったのですが、私は国分一太郎や無着成恭も名前しか知りません。(ラジオは聞いたかも)
ここら辺に絡みそうな本で読んだことがあるのは寒川道夫の「山芋」だけです。
どんな批判がされたのかも想像もつかないので見当違いの事を書いているだけの可能性も高いです。
数学教育でいえば、遠山啓はピアジェの「発達心理学」の時代の人です。
その後に発達してきた、認知心理学や行動経済学などの知見を知り得ません。
もし遠山啓が現代に生きていたら、いったいどんな算数・数学教育にどんな提案をしたのか?
(私には全然わからない)
ついでに思い出した本。
まだあるのかな?