大杉榮語録

大杉榮語録
爽快である。例えば,こんな感じです。


 僕は精神が好きだ。しかしその精神が理論化されると大概は厭になる。理論化という行程の間に,多くは社会的現実との調和,事大的妥協があるからだ。まやかしがあるからだ。
 精神そのままの思想はまれだ。精神そのままの行為はなおさらまれだ。生まれたままの精神そのものすらまれだ。……
 社会主義も大嫌いだ。無政府主義もどうかすると少々厭になる。
 僕の一番好きなのは人間の盲目的行為だ。精神そのままの爆発だ。しかしこの精神すら持たないものがある。
 思想に自由あれ。しかしまた行為にも自由あれ。そして更にはまた動機にも自由あれ。
他にも読んでいて「うんっ,分かる!その気持。よくぞ言ってくれました」という文章でいっぱいです。平和主義のブロガーの皆さんは(地球規模の?)無政府主義という感じの方が多いので,この本には共感できると思います。自信を持ってお薦めします。
ただ共感して気持ちよいだけではだめなんぢゃないかと思うのです。正しいことを言えば通るのは小学校の学級会ぐらいで,それも教師の強権が有っての事です。正しいことを言うだけでよいのなら,とっくに日本共産党が政権をとっているはずです。

 あの乱暴な法律案が,絶対多数の政府党によって,あのまま無事に通過するとする。誰が,どんな馬鹿者が,そんな法律に衷心から賛成しよう。で,政府はきっと,民主主義者とも言われているいわゆる進歩思想の人々の持ち出す修正案を,喜んで受け入れるに違いない。彼らでさえ賛成したのだからということが,一般世間を瞞すのに一番いい方法だからである。
 この点において僕らは,明白に僕らの敵であろうとする政府そのものよりももっと,自分だけいい子になって政府の道具になろうとする,彼ら進歩主義者を憎むものである。
 政府がどんな無茶を僕らにしようと,僕らはそれを政府当然の仕事として受け入れる。僕らはただそれに対する僕ら自身の態度を決めればいいのだ。
 けれどもこのいわゆる進歩思想家に対しては,民衆が瞞されやすいだけ,それだけ僕らは黙っていることはできない。
 まず彼らから叩き倒すんだ。
正しい運動論を持たないと,潰しあいがはじまるのです。ここで「正しい運動論」なんて書いただけで,ばしばし噛み付かれる対象です。
私自身の経験でも,自民党より社民党の方が憎しみの対象です。自民党の政策は納得できるわけです。私がもし資本家だったら当然こういう反応をしめすだろうなと。敵として正しいという感覚でしょうか。でも,社会党(現在の社民党)だけは許せないと感じます。一刻も早く消滅して欲しいというのが偽らざる気持です。(もっと前は民社党というのがありましだが)
この「感情」を制御するのは至難の技です。

運動は基本的に「仲間を増やす」ことを目的にします。弱者の力は団結だけだからです。それが,小さな意見の違いで排除しあい,憎しみあい,分裂していきます。ブログの世界でも似たようなことが始まりつつあるような気がします。意見が少しでも違うと,気楽にコメントを書き込めないようなブログでは仲間は増えていきません。