教員の質を高めることの危険性

むかつくニュースが多いです。いやニュースの内容ではなくてその報道姿勢に。医療問題や教育問題の報道で「うん、そうだ!その通り!」とひざを叩いた記憶、ありません。逆に「ふざけるな」とテレビの電源を落とす確率、高いです。特に誰かが死んだときにお涙頂戴の編集方針でされる報道、許しがたい輿論の誘導だと感じます。遺族の声に絶対的正義を与えんとする意思を感じます。正義か悪者かの思想に国民を浸そうと連日連夜奮闘しているようです。当然報道機関はわれこそは社会正義の具現者だと息巻いている訳ですが、そのわりに報道機関がイジメの対象にするのは末端でけなげに頑張っている「個人」だったりするように思います。「やってらんねぇよ」と責任回避の土壌を生み出しているのは、いったい誰なのでしょう。

今まで再三書いたことなのですが、また書きたくなりました。

「教員の質が低下しているから高めなくてはいけない」こういった意見が席巻しています。質が低下していることが事実かどうかなど検証するべき問題は多々ありますが、現実にこの意見を根拠としてさまざまな施策がなされています。
でもね、昔、日本の教育史でこんな風に習ったことを思い出すんです。
戦前の教員は優秀だった。それは貧乏だが優秀で学びたいという人材を学費が支給される師範学校という制度で集めたから。師範学校では「順良」な人間形成がなされた。つまり人柄も立派で命令には従順ということですね。これらの立派な「教師」たちが子どもたちや親の信頼を得て、立派な教育を施し、「国民」を作った。そのおかげで、日本は戦争をすることができた。爆弾かかえて片道分の燃料積んで飛び立つことができるパイロットを育てたわけですから、その教育技量は物凄いものがあります。現代の自爆テロと比較したくなってしまいます。
これらは価値判断は別にして教育の成果だったと認識したからこそ、敗戦後の教育基本法には次のように書かれました。

われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。

さて、この理想とかけはなれていくようですが、教員の質の向上は両刃の剣であるということを認識していただきたいわけです。もちろん「教育」と「洗脳」はまったく違うものですが、技術的には近いものがあるのです。社員を馬車馬のようにしかも自主的に働かせることのできる経営者は、たぶんそのまま優秀な教育者になれますよ。某宗教団体の幹部だって、もし教員の世界に入っていたら……。逆に優秀な学者が子どもとのコミュニケーションが巧くとれるかどうかはわかりません。
戦後の教育改革はこの認識の下に、教員養成はそういう順良なる精神を養い教育技術を磨く「師範学校」ではなく、一般の大学で行おう、となったのだと理解しています。師範学校も学芸大学と改められました。「学芸」とは簡単に言えば一般教養のことです。つまり教育の専門家ではなく、市民としての教養をもった常識人こそ、教育に携わるべきだということですね。

このエントリー、かなり推敲しないとわけわからない内容になってしまいました。教員の「質」を高めるといっても、その中身を問題にしないととんでもないよ。何百万人もの犠牲で得た教訓を忘れないようにしようね。…こういうことなんですけれど。いや、実際最近の教員に与えられる膨大な「研修」、効果は薄いから罪がないというものの、どうなんだろう。いや、余計なことでした。さらに余計なことを書いておくと、今日は文化祭の振替で休日なのです。どうか「職務専念義務違反」などと訴えてくださいませんように(^^)。