発達障害の子どもたち

発達障害の子どもたち (講談社現代新書)

発達障害の子どもたち (講談社現代新書)

最初に「世間に広がる誤解」として次のことが箇条書きされている。

  • 発達障害は一生治らないし,治療方法はない。
  • 発達障害児も普通の教育を受けるほうが幸福であり,また発達にも良い影響がある。
  • 通常学級から特殊学級に変わることはできるが,その逆はできない。
  • 養護学校に一度入れば,通常学校には戻れない。
  • 通常学級の中で周りの子供たちから助けられながら生活をすることは,本人にも良い影響がある。
  • 発達障害児が不登校になったときは一般の不登校と同じに扱い登校刺激はしないほうが良い。
  • 養護学校卒業というキャリアは,就労に際しては著しく不利に働く。
  • 通常の高校や大学に進学ができれば成人後の社会生活はより良好になる。
  • 発達障害は病気だから,医療機関に行かないと治療はできない。
  • 病院に行き,言語療法,作業療法などを受けることは発達を非常に促進する。
  • なるべきう早く集団に入れて普通の子どもに接するほうがよく発達する。
  • 偏食で死ぬ人はいないから偏食は特に矯正しなくて良い。
  • 幼児期から子どもの自主性を重んじることが子どもの発達をより促進する。

これらが誤解である事は,教員をやっていればアタリマエ(理論的根拠はなくても)に思える。障害のある子を普通学級に入れるなんて,子どもにとってなんと残酷なことか。親の見栄かヒトリヨガリにすぎないと思っていた。でも,このような切り口の本がでるということは,本当に子どものためを思っている親もいるのかなぁ。……あまり,そうとは思えない。

正多面体

昔コメント欄で「ガチャガチャポン」という番組が面白いと書いてくださった方がいた。
先日、その番組が本になっているのを見つけて購入した。

数学探偵セイヤ

数学探偵セイヤ

そのなかに、「辺の長さが等しい正多面体の中で一番大きいのは?」という問題があった。ついつい「正二十面体」と答えてしまう人が多いようだ。筆者は名前から一番大きい数字を答えてしまうのだというが教科書にも責任はある。

こんな図なんだもの。
下の写真は綿棒と木工ボンドで作った模型。実際はこんなに大きさが違う。

並び方も大きさ順、つまり頂点の数の順に並べてある。つまり正4頂体、正6頂体、正8頂体、正12頂体、正20頂体だ。平面図形の場合は頂点の数と辺の数が一致するので、三形と呼んだり四形と呼んだりしても混乱はないが、立体の場合は頂点(角)の数で呼ぶか面の数で呼ぶかでずいぶんイメージが違ってしまうということだ。
それにしても正十二面体は大きい。プラトン先生は他の4つはこの宇宙を形作る4つの元素に対応するものだとして、この正十二面体は宇宙そのものを表わしていると考えたそうだが、むべなるかなである。

錐の体積は柱の体積の

中学3年生くらいに「錐の体積は柱の体積の何分のいくつですか」と問えば「三分の一」と応えてくれる。で、さらに「ではぴったり三分の一なのですか。それともだいたい三分の一なのですか」と聞くと「だいたい三分の一」と思っている生徒がかなり出現する。
これは現行のカリキュラムが第1学年は「直感幾何」とかでペリーさんだかの影響を受けているんだそうな。で、要するになんとなくわかりゃぁいいという姿勢で作られている。錐の体積も円錐型の容器に入れた水を円柱型の容器に移して「ほら、三分の一になったでしょ」ですますわけだ。ところが、この実験器具、高価な割には精度が低くて、ちっともちゃんと1/3になんかなりゃしない。
だから、そんな実験で教わった子どもたちは「だいたい1/3」だと思っちゃうのかもしれない。ちょうど、1年生では今まで円の面積は「ちょうど半径×半径×3.14」だと思っていたのが、「だいたい3.14」で本当は\piが正しいなてことを勉強した後だからなおさらかも。
で、私はあまり実験はしないで四角錐の模型で授業をするパターンが多い。

これをあわせると四角柱になるから体積は「ちょうど1/3」だというわけ。
もちろん、伏線として柱の体積のところで斜円柱の体積の話などをしておく。頂点がマンナカでなくても体積は変わらないってあたりを押さえておくわけだ。

この3つを下の写真のように並べていてひらめいたのが、頂点を端に寄せないでも説明できる模型。

もう一個あわせれば、頂点がマンナカの四角錐ができる。それを6ユニットあわせると…。

これを組み立てるとちょうど立方体になる。
同じ高さの四角柱はこの立方体の半分だから、四角錐3個分というわけ。

この模型、逆におりまげると菱形十二面体になって面白いと思っていた。

かなり年季が入っているので汚い。そろそろ作り直さなきゃだな。
ところが今日、教科書を見てがっかり。ちゃんと載っていた。くやし〜。

文化としての数学

文化としての数学 (光文社文庫)

文化としての数学 (光文社文庫)

あれれっと目を疑った。何で今更遠山啓が復刊されているのか。しかも光文社文庫?????
ああきっと本棚をひっくり返せばあるはずだと思いながらも買ってしまいました。
一読、ああ遠山啓です。染みこむ染みこむ。むさぼるように読んだ四半世紀前の記憶が鮮やかに蘇ってきます。
ああ、「今更」でなくって「今だからこそ」遠山啓なんだなぁ。
全集を引越しの際に捨ててしまったこと、悔やまれます。

嘘をついてでも伝えたい真実

というのも、私が焼きそばの具のような生活細部についてブログ日記で言及するのは、ほとんどの場合それが「嘘」(とまでは言わぬまでも、「ホラ」ないし「針小棒大」)だからなのである。
どうしてそういう真実味の薄いことを口走ってしまうのか、その理由が私にはよくわからないのであるが、そこにはそれなりに「嘘をついてでも伝えたい真実」が伏流しているからであると考えたい(焼きそばを食べたのはほんとうですけど)。

久しぶりにこのフレーズを見かけた。
私が記憶しているのは「嘘をついてまで伝えたい真実」だったような気もするが…。
で、私がはじめてこのフレーズに出会ったのは、微かな記憶が残っているだけなので怪しいのだが、真崎守の漫画だったのではないかと思う。永嶋慎二の「フーテン」とか「漫画家残酷物語」と似た雰囲気の漫画だったことは覚えているのだが、永嶋ではたぶん、ない。だったら真崎守かなと思うのだが。どなたか、ご存知ですか。
さらに、もっとオリジナルがある可能性も高い。当時すでに有名な言い回しだったのかもしれない。最初にこの言葉を作ったのはいったいどなたなのでしょう。これも、ご存知の方いらっしゃったら、どうか教えてください。

口語訳古事記 人代篇

口語訳 古事記―人代篇 (文春文庫)

口語訳 古事記―人代篇 (文春文庫)

著者が挿入する古老のつぶやきがいささか多すぎるような気がする。が、読みやすいのですらすら読めて嬉しい。以前読んだ時はもっと血生臭くって残酷なシーンが多かったような記憶があったのだが、今回読んだ限りではそれほどでもなかった。(それでも十分多いが)

みなそそく おみのをとめ
ほだり取らすも
ほだり取り かたく取らせ
したがたく やがたく取らせ
ほだり取らす子

この部分の現代語訳

水がそそぎ流れる大海の 臣のおとめよ
豊かな垂れ物を手になさるよ
大きなあれを手に いま少し強く取れよ
しかと固く いよいよ固くなるまで取れよ
豊かな垂れ物を手になさる子よ

この部分は驚いた。「ほだり」ってまだ辞書ではお銚子ってなっているが、これは新しい解釈なのか。
解説ではこうなっている。

ここに示した歌の解釈は、歴史学者・直木孝次郎の見解で、おそらく正しい。ことに酒の席では、こうした卑猥な歌も多く歌われたはずである。
ホは立派にの意のほめ言葉、タリは垂れているものの意で、満ち足りた状態を表わす。通説では酒を満たした瓶のことだと言われているが、ここでは男の一物と解釈した。

垂れているものといえば、確かにペンダントのペン…ペニスと同じ発想の言葉ですな。国の東西は違っても「垂れているもの」といえば、アレなんですなぁ。でも西のほうでは使用する際はファルスと名前も変わるけれど、古代日本ではどうなんだろうと思ったことでありました。